高額化の背景にある最先端のテクノロジー

ではHMDとしてのApple Vision Proは、どのような特長を備えるのだろうか。すでに触れたとおり、ビデオシースルー方式の課題だった遅延や視覚的なゆがみの解消はまず注目すべきポイントだ。VRデバイスはその性質上、仮想現実に慣れるまではどうしても画面酔いが発生し、ビデオシースルー式のMRデバイスでも同様の問題は避けて通ることができないと考えられてきた。Apple Vision Proがこの課題を解決した背景には、大きく二つのテクノロジーの存在がある。

一つは空間認識に関するテクノロジーの進化である。その一例が、自動運転の精度向上に大きな役割を果たすことが期待されるLiDARだ。LiDARはLight Detection And Ranging(光による検知と測距)の略。レーザー光の照射により、従来のミリ波レーダーによる計測と比較して大幅な精度向上を可能にするLiDARを含め、Apple Vision Proは12基のカメラと5基のセンサーを搭載し、現実空間の認識精度の大幅な向上を実現している。

もう一つが、カメラや各種センサー類、マイクから収集されるデータ処理に特化した専用チップの開発である。Mac Bookなどに搭載されるM2チップと共にApple Vision Proに実装されたR1チップがそれで、タイムラグを感じさせない画像処理に大きな役割を果たしているとみられる。

空間コンピューティングの実現にはもう一つ大きなポイントがある。それは仮想デバイスをどう操作するかという課題である。Apple Vision Proは、指先の動きを認識するハンドトラッキングと、HMDの内側を向いた複数のカメラが瞳孔の動きを追うアイトラッキングという2種類の操作法を実現することで、この課題を解決している。さらにいえば、LLMを活用した音声入力の精度向上も、空間コンピューティング実現の大きな追い風だ。簡単な操作は音声による指示で済んでしまうからだ。

複数の内蔵センサーが瞳孔の動きを正確に追う アイトラッキング

Appleの空間コンピューティングを理解するうえでは、空間コンピューティング専用OSとして開発されたvisionOSにおけるアプリ開発の基本的な考え方を知ることも有効だろう。visionOSネイティブアプリは以下の3要素に基づき開発されることになる。

空間コンピューティングの3要素

ウインドウ

見た目や機能は従来のディスプレイとほぼ同じで、テキストや画像などのコンテンツが映し出される。空間コンピューティングでは任意の場所に制約なしにウインドウを配置できる。

ボリューム

空間コンピューティングならではの要素がこのボリュームだ。空間における3Dコンテンツの配置を定義することで、現実空間と同じように、移動しながらオブジェクトをさまざまな角度から見ることが可能になる。

スペース

PCのデスクトップに相当する。前述のウインドウやボリュームを包括する、奥行きを持つ三次元空間であることが大きな特色である。
なおiPadOS/iOSアプリについては高い互換性が担保され、アプリ開発者がほとんど手を加える必要なく展開することができる。

空間コンピューティング普及にはHMDの低価格化がカギに

では空間コンピューティングにはどのようなメリットがあるのだろうか。次にメリットと具体的な活用例を整理してみたい。

デスクワークの効率化

冒頭でも触れたとおり、空間コンピューティングはオフィスワークを大きく変えることは間違いないが、生産性向上にも寄与する可能性がある。例えば、作業内容に応じて、画面サイズを拡大・縮小できるディスプレイを自由に立ち上げられることは大きなメリットになるはずだ。また、設定時刻になるとスケジューラーが目の前の空間に表示されるなど、これまでにないUI体験にも注目する必要があるだろう。

遠隔地との視覚情報共有

作業者が視覚情報を共有し、専門家が遠隔地から状況に応じたアドバイスを行うHoloLens活用事例は、空間コンピューティングの可能性を考えるうえで大きな意味を持つはずだ。またAR/MRデバイス開発の先行ランナーの一社であるMagic Leapは、近年ヘルスケア領域に注力しているが、その効果が最も大きいと思われるのが外科手術の領域だ。外科手術の成否が執刀医の能力に左右されることは否めない。空間コンピューティングによって視覚情報を共有しながらのベテラン医師によるアドバイスは、こうした課題の改善に大きな役割を果たすことが期待される。

AR/MRデバイスの先行ランナーの一社であるMagic Leapはヘルスケアなどミッションクリティカルな領域に注力する

3次元データの再現

現実空間を記録し、振り返る方法は、これまで2次元化というプロセスを経由するほかなかった。しかし3Dスキャンアプリと組み合わせることで、2次元化を経ることなく多様なオブジェクトを共有することが可能になる。

小売店の顧客サービス向上

アパレル製品は購入前の試着が今も一般的だが、実店舗に足を運んでも対応サイズが欠品しているケースが珍しくない。3次元スキャナと空間コンピューティングにより、リアルなアバターに商品を着せることが可能になる。家具通販では以前からVR活用が進んでいるが、空間コンピューティングは現実の部屋とデジタルデータとしての家具の高精度な重ね合わせを実現する。

エンターテインメント

ディスプレイサイズを自由に変更できる特長は、視界いっぱいに広がる迫力ある映像体験を可能にする。将来的には、MRの特色を生かした新たなコンテンツ開発にもつながるはずだ。また空中に表示した電子書籍のページを指先や視線の動きでめくれる特長は、電子書籍普及の起爆剤にもなり得るだろう。

そのほか土木・建築領域では、現実の風景に建築予定の建物を重ね合わせることで意思決定の迅速化が期待されるが、空間コンピューティングの普及には大きな課題が存在する。それはHMDが高額なことだ。冒頭でも触れたとおり、Apple Vision Proの国内販売価格は約60万円。紹介したMicrosoft HoloLens やMagic Leapにしても一基40~50万円する。

現時点では、フリーアドレスオフィス提案との組み合わせを含め、Apple Vision Proによる業務改善提案はあまり現実的ではないのが実情だ。だがその一方で、スマートフォンとの連携を前提に多様な機能を提供するスマートグラスの低価格化が急速に進んでいる点に注目する必要がある。主にコンシューマ市場で普及が進むスマートグラスは、これまで動画などのコンテンツを映すディスプレイとしての機能に注目されることが一般的だった。しかし近年は、空間コンピューターとしての機能を満たす製品も登場している。

一例が中国のハードウェアスタートアップが開発したARグラス「XREAL Air」だ。6万円前後から購入可能な同シリーズの最上位製品は、ハンドトラッキングや3次元オブジェクトの表示などの機能を備える。また2021年にカリフォルニアで誕生したコンシューマ向けARデバイスメーカーであるVITURE社が7万円台で販売するVITURE Pro XRグラスは、スマートフォンと連携し、アプリ画面を現実空間に表示する機能を備える。Appleも空間コンピューターの低価格化に取り組んでいるようだ。

AR/VITURE Proはスマートフォンと連携し、画面を空間に浮くように表示する

AIが台頭する一方で人手不足が進む中、オフィスワークの改善において空間コンピューティングが大きな役割を果たすことは間違いないはずだ。その普及には、HMDの低価格化が一つのカギになる。

XREAL Airの最上位機種は3Dオブジェクトの表示も可能だ

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