今年3月、富士通はスーパーコンピューター「富岳」のテクノロジーを利用し、古典コンピューター上で36量子ビットの回路をシミュレーションする装置の開発を発表した。すでに富士フィルムとの共同研究で運用をスタートさせた量子シミュレーターの意義を知るには、量子コンピューター開発の現在地を知る必要がある。

量子コンピューターの現在地

量子コンピューターとは、二つの状態を同時にとる量子の振る舞いを情報処理に応用したテクノロジーである。「シュレディンガーの猫」のパラドックスとして知られる、ミクロ世界で起こっている量子重ね合わせを受け入れることはとても難しい。それは量子コンピューターの専門家にとっても同じらしく、観測が不可能である以上、究極的には信じるか信じないかという結論に帰結するほかないようだ。

現時点の量子コンピューターの多くが採用する「量子ゲート」と呼ばれる論理回路が発表されたのは1985年のこと。1990年代には古典コンピューターには到底不可能な処理を行う、いくつかの印象的な量子コンピューターのアルゴリズムも発表されている。
有名なのは1994年に発表された「ショアのアルゴリズム」として知られる素因数分解の量子アルゴリズムで、現在広く普及する「公開鍵」と「秘密鍵」による暗号化技術RSAに大きな打撃を与えることにつながっている。2024年をめどにRSAに変わる新たな暗号技術の規格化が進む背景には、実はこの量子アルゴリズムの存在がある。

先行ランナーであるIBMが、超電導量子ビットによるわずか5量子ビットの量子計算機を発表したのは2016年のこと。翌年には16量子ビットに拡張した「IBM Quantum」(IBM Q)を開発しクラウドで提供を開始。国内でも27量子ビットに拡張されたIBM Qが2021年に「かわさき新産業創造センター」に設置され、官民の活用が進んでいる。また同年には127量子ビットの量子プロセッサ「イーグル」を発表。IBMは、2023年には1121ビットの量子プロセッサのリリースを予定している。
量子コンピューターの現状を理解する上では、クラウド量子サービスの台頭も見落とせない。マイクロソフトがAzure Quantumの名称で量子コンピューターの提供を開始したのは2019年11月のことだ。クラウド量子サービスの特徴は、APIによりC++やPythonといったプログラミング言語で操作できる点にある。2020年にはAmazonもAmazon Braketとして同様のサービス提供を開始。クラウド量子サービスは現在、20~32量子ビット程度のコンピューティングを提供している。

ここまで読んで、量子コンピューターのビット数の少なさに驚いた方も少なくないはずだ。その驚きは正しくもあり、間違いでもある。量子ビットは二つの状態を同時に取ることができるため、n個の量子ビットは「2のn乗」の状態を同時に取ることができる。それにより、わずか280個の量子ビットがあれば理論的には宇宙に存在するすべての原子の状態を表現することの可能になるという。
ただしコンピューターによる演算では、書き込み時のエラー等を検出し訂正する「誤り訂正」の実装が不可欠になる。古典コンピューターの場合、データの冗長化で誤り訂正を実現しているが、量子コンピューターの場合は単にデータを冗長化するだけでは対応は難しい。誤り訂正機能を備えた量子コンピューターの実用化は、最低でも数百万の物理量子ビットが必要になると言われ、その実現にはこの先、20~30年が必要になるという見方が強い。

量子コンピューターの役割

複数の状態を同時並行で処理する量子コンピューターは、膨大な選択肢の組み合わせの中から最適解を導き出すという用途において、特に大きな役割を果たすと見られている。その最も分かりやすい例は、化学物質の生成において、より効率的な生成方法を見つけ出す用途だろう。また創薬の分野で効果をシミュレーションしたり、都市交通において交差点の信号の切り替えタイミングを最適化する上でも量子コンピューターは大きな役割を果たすと見られている。

量子コンピューターが実用には、まだほど遠いと見られる中、クラウドによる量子コンピューティングが広く受け入れられている背後には、化学や製薬、自動車、金融など多様な産業分野において、その実用化を見越した人材育成やノウハウ蓄積に向けた動きが活発化している状況がある。

古典コンピューター上で稼働する量子シミュレーターは、まさにこうしたニーズに対応した装置だ。量子コンピューターの速さこそ望めないものの、誤り訂正を備えた安定的な運用が可能になることがその理由である。量子シミュレーターは、量子アルゴリズムのノウハウ蓄積において大きな役割を果たすことが期待されている。