NHKで2017年11月から放映のドラマ『マチ工場のオンナ』。そのモデルとなったのが東京・大田区の小さな精密機器メーカー、ダイヤ精機株式会社(以下、ダイヤ精機)の諏訪貴子社長だ。ドラマの原作である諏訪さんの著書『町工場の娘』には、亡くなった父親から会社を受け継ぎ、悪戦苦闘しながら経営を立て直した実話が綴られている。経営の経験がまったくないのに、突然社長を任された32歳の主婦がどうやって町工場を甦らせたのか? 戸惑いや悩みはなかったのか? 諏訪さん本人に直撃した。
BP:『町工場の娘』、興味深く読ませていただきました。亡くなったお父さんの後を継いで突然、2代目社長になったこと。その後3年間、リストラなど苦渋の決断や、リーマンショックをはじめとするピンチを乗り越えて会社を再生させた経緯などがリアルに描かれていて、さぞ大変だったろう、よく乗り越えられたなぁという感想を抱かずにはいられませんでした。
諏訪貴子氏(以下、諏訪氏):父親から最初に「会社を手伝ってほしい」と言われたときには、本当に戸惑いました。
本にも書きましたが、わたしの父は2003年9月に肺がんが見つかって手術を受け、それから約半年後の2004年4月に亡くなっています。
手術は成功し、お医者さんからは「5年生存率80%」と言われてほっと胸をなで下ろしていたのですが、その後、急性骨髄性白血病を発症し、病院に担ぎ込まれてからわずか4日で命を失いました。
わたしが父から「会社を手伝ってほしい」と告げられたのは、亡くなる1カ月ほど前のことです。そのとき、実家で迎えてくれた父の顔を見て、あまりの顔色の悪さにびっくりしました。
おそらく父は退院してからも、会社を守り抜くために無理をしていたのでしょう。でもそのときは、「5年生存率80%」というお医者さんの言葉を信じ、「もう少しだけ頑張って」と励ましました。それからわずか1カ月で父がこの世を去ってしまうとは、思ってもいなかったからです。
結局、「わたしが後を継ぎます」と父に直接言うことはできませんでしたが、その後、経営幹部に「社長になってほしい」と言われ、お客さまからも「いままでどおり、いい製品をきちんと納品してくれるのなら応援しますよ」という励ましのお言葉をいただいたので、「受け継ごう」と腹を据えました。
BP:とはいえ、メーカー勤務の経験こそあっても、会社経営の経験はまったくなかった状態で町工場の2代目社長に就任されたわけですよね。迷いはありませんでしたか?
諏訪氏:もちろん、まったくなかったと言えば嘘になりますが、お客さまが応援してくれただけでなく、社員も1人も辞めなかったので、父が育て上げた会社を「何としても守り抜かなければ」という気持ちが強くなって、とにかく奮闘するしかありませんでした。
最初の1年は本当に無我夢中で、戸惑うどころか、毎日何をしていたのかさえ、正直よく覚えていません。
『町工場の娘』は、わたしが社長に就任して以来、毎日書き溜めていた日記をもとに執筆したのですが、あらためて就任してからの1年を振り返って、「へぇ、このとき、こんなことをしていたのか」と驚いたほどです(笑)。
BP:社長に就任されたとき、売上規模に対して多すぎる人員を減らすため、5人のスタッフをリストラされたと本に書かれています。これはかなり苦渋の決断だったのではありませんか?
諏訪氏:あの瞬間は、幹部社員からの反発にあいました。もともと、幹部社員たちがわたしに「社長になってほしい」と頼んできたのは、お飾りでもいいから会社の代表者を置いておきたいという思いがあったのでしょう。
でもわたしは、社員のため、お客さまのため、さらに言えば日本の製造業を支えてきた町工場の火を灯し続けるためには、何としても父が残してくれたダイヤ精機という会社を存続させなければならないと思っていました。
そのためには、会社が抱えてきた問題を根本から解決することが不可欠です。リストラせざるを得なかったことには本当に心が痛みましたが、そうしたわたしの決意を社員に知ってもらうためにも、やらざるを得ない決断だったのだと思っています。
BP:ダイヤ精機は、自動車部品などの仕上がり寸法をミクロン単位で計測するゲージや、加工する部品を適切な位置に誘導・固定する治工具などを製造するメーカーで、他社には真似のできない優れた超精密加工技術を最大の武器とされているそうですね。
諏訪氏:高い技術力を持ってはいるのですが、わたしが社長に就任した当時は、売り上げが思うように伸びず、人員超過によって収益がますます圧迫されるという悪循環に陥っていました。
リストラはそうした不採算構造を抜本的に解決するためのものだったのですが、これをスタートに3年がかりで会社を立て直す「3年の改革」プランを策定・実行しました。
1年目は「意識改革」、2年目は「チャレンジ」、3年目は「維持・継続・発展」をテーマに掲げ、ステップを踏みながら、技術を誇るだけでなく、その技術を生かして稼げる会社にしていくことを目指したのです。
なかでも1年目の意識改革は正念場でした。日記を読んで振り返らなければ思い出せないほど社長としてやるべきことに忙殺されながらも、社員一人ひとりに「自分たちが生まれ変わり、会社を変えなくてはならない」という意識を持ってもらうことが大切だと考え、そのための場づくりをしました。
BP:『町工場の娘』には、意識改革の一環として、会社や諏訪さんに対する悪口を忌憚なく発表する「悪口会議」を実施したと書かれていますね。
諏訪氏:会社や経営者に対する悪口というのは、言い換えれば「改善提案」です。社員に「改善すべき点を言ってください」とストレートに問い掛けても、遠慮してしまったり、「立派なことを言わなければ」とプレッシャーに感じてしまったりするものですが、悪口なら遠慮なく言えますよね(笑)。
互いに腹を割って話し合うことが社員の距離を縮め、わたしの思いや考えを理解してもらうことにつながりますし、実際に悪口から、業務効率や労働環境などのさまざまな改善効果も表れています。その結果、仕事がやりやすくなったり、製品の仕上がり精度や生産量が上がったりすると、社員は改善の手応えを感じ、「ああしたらどうだろう」「こう変えてみてはどうか」といったコミュニケーションが活発になっていくわけです。
1年目の意識改革は、会社を変えていくための土台づくりのようなものでしたが、これができあがったことによってダイヤ精機の改革は一気に進んだと手応えを実感しています。
BP:「3年の改革」を経て、ダイヤ精機は成長へのステップを歩み始めるわけですが、諏訪さんが社長に就任してから4年後の2008年にリーマンショックが襲います。このときは、どうやって困難を乗り越えられたのですか?
諏訪氏:ショックの直後はそれほど業績に変化はなかったのですが、翌年の1月になって、取引先からの注文が一気に8〜9割も減りました。一時は再リストラも考えざるを得ないほど追い込まれましたが、思わぬ“神風”が吹いて救われました。リーマンショック後、急激な円高を受けて取引先の自動車メーカーが海外への生産シフトを強化した結果、海外生産用のゲージの受注が急増したのです。結果オーライではありましたが、これで何とか息をつくことができました。
そもそもゲージは当社の看板製品なのですが、非常に精密な加工が要求されるため、職人がいなくなると製品そのものが供給できなくなるというリスクを抱えていました。そのため、わたしが社長を引き継いだときには、ゲージの生産をやめることも考えていたのですが、父がこだわってきたものづくりへの想いが集約された製品をなくすのはしのびないと思い直し、細々と生産を続けてきたのです。結果的にそのゲージに救われることになって、わたしたちのような町工場が長年培ってきた技術は、簡単に絶やしてはいけないのだという思いを改めて強くしました。
BP:諏訪さんが社長に就任してから12年になるそうですね。その間、いろいろなご苦労があったと思いますが、お話をうかがっていると、あまり苦労を苦労と感じていないようにお見受けします。どうすれば、そんなふうに前向きになれるのでしょうか?
諏訪氏:あまり大変だとか、苦労とか思わないことが大事なのでしょうね。
社長に就任してから半年ほど経ったころ、経営のヒントになればと思って読んだ哲学書の中に、「世の中には幸も不幸もない。考え方次第だ」というシェークスピアの言葉が書かれていたのを見て、そう感じました。
大変とか苦労というのは、あくまでも人それぞれの基準であって、基準を上げれば、それほど感じなくなるものです。世の中には、自分よりも大変で不幸な人はたくさんいる。それに比べれば、自分がいま直面している問題なんてたいしたことはないと思えるようになれば、何事にも前向きに取り組めるのではないでしょうか。
前向きに行動するためには、失敗の基準を設定することも大切です。
わたしにとっての失敗は、父から受け継いだ会社をなくしてしまうこと。それ以外の失敗であれば、会社を成長させるために与えられた課題だと思えるので、むしろ、どうにか課題を解決して、会社をいい方向に持っていこうという前向きな気持ちになれます。
過分に失敗を恐れると、萎縮したり、ストレスを感じてしまったりするものですが、「自分が決めた基準以下の失敗は失敗ではない」と思うことができれば、何も恐れるものはありません。
BP:諏訪さんは32歳で社長になられていますね。本誌読者には20代、30代のビジネスパーソンも多いのですが、そうした若手の方々が前向きに仕事や人生に向き合えるようになるためのアドバイスをお願いします。
諏訪氏:よく最近の20代、30代は夢がないといわれますが、その年代では、なくても当然だと思います。
自分自身を振り返ると、20代は上の人から「やれ」と言われたことを必死にこなしていた時期、30代は自分が「やらなきゃいけない」と思ったことを必死にやっていた時期でした。
そうした時期を経てようやく自分の知識と行動が伴い、40代になると、夢を掲げてチャレンジできるタイミングがやってくるのです。
いま夢がないからと言って、あせる必要はまったくありません。目の前にある「やるべきこと」をしっかりとやれば、いずれ夢は見えてくるはずです。
BP:最後に、諏訪さんの今後の目標について聞かせてください。
諏訪氏:ダイヤ精機の経営を受け継いで12年が経ちましたが、2代目社長はどこまで行っても2代目のままです。次はわたしが創業者になってみたいと思って、新しい会社を立ち上げることにしました。
ゼロから事業を生み出し、成長させる創業者の苦労は、創業者にしかわかりません。かつて父が経験した苦労をわたし自身も体験し、さまざまなことにチャレンジすることで日本の製造業をもっと元気にしていきたい。それがいまの大きな目標です。
とにかく行動しなければ気が済まないタイプなので、あまり頑張り過ぎないように気を付けなければと思っていますが、前に進み続けることだけはやめたくないですね。
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